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●伊達政宗、青年期の居城
岩出山城はもともと「岩手沢城」と呼ばれていて、室 町初期の応永年間に大崎氏家臣・氏家弾正が築城したと伝えられています。その後伊達政宗が天正19(1591)年に25歳でこの地に移ってから、慶長8(1603)年に仙台城に移るまでの約12年間居城とした城です。現存する建物はありませんが、建物跡は学校用地及び城山公園として整備され、町民の憩いの場となっています。同地にある岩出山町内を見守る伊達政宗像は、もともと仙台城跡にありました。それを昭和39年に仙台市が岩出山町に寄贈し、この地に移されたものです。
●城の縄張りは榊原康政!! 政宗はこの地に移る以前、生育地でもある米沢城(山形県米沢市)を本拠としていました。そして各地を転戦、
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(1)伊達政宗平服像 |
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奥羽の対抗勢力を次々と駆逐し、南奥羽のほとんどを手に入れます。しかし、時すでに遅く中央では豊臣秀吉が全国統一の最終段階に入っており、まさに関東、奥羽へと兵を進めようとしていました。政宗はこの時の北条征伐に遅参してしまい、後の奥州仕置により旧芦名領(会津、岩瀬、安積)が没収され、これを機に治府を岩出山へと移すのです。岩出山を次期居城として選んだ理由には以下の点があげられます。
(1)徳川家康の勧め (2)新領地のほぼ中央 (3)当時の奥州主幹道がこの地を経由(交通の要衝地)
(4)前城主の氏家義継とは同盟関係にあり政宗自身、城 の規模、堅固さを知っていたそして岩出山城は徳川家康の命により、その家臣榊原康正が縄張り、修築を行い政宗の居城となります。さらに
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(2)内門跡 |
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この時、「岩手沢城」から「岩出山城」へと改名されのです。 ●岩出山城は「暫定的居城」?
政宗の新居城となった岩出山城ですが、しかし、政宗はこの城に長期にわたって滞在するということはありませんでした。すでにこの段階で政宗は仙台平野への進出を目論でいたらしく、この岩出山城は政宗の「暫定的居城」として位置づけられていたようです。実際、その後も大規模な修築などは行われることもなく、また、合戦の舞台となることもありませんでした。周知のとおり、関ヶ原合戦の後、政宗は仙台に築城し、そしてその城を中心に仙台藩の領国経営に取りかかります。その後の岩出山城は政宗の四男・宗泰を祖とする一門格の岩出山伊達氏(1万4640石)の居館となり、「城」としてで
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(3)本丸跡 |
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はなく、「要害」として位置づけられ存続していきます。 ●参考文献
学研 歴史群像シリーズ19 伊達政宗【独眼竜の野望と咆哮】学研 歴史群像戦国ベストセレクション 風雲伊達政宗伊達泰山文庫 伊達泰宗 伊達政宗人物史
-伊達政宗年表-宝文堂 紫桃正隆 危うし獨眼龍 -伊達政宗の見果てぬ夢-山川出版 宮城県の歴史散歩 及び現地説明板
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(4)岩出山城跡からみた岩出山町内の風景 |