■ 母(かあちゃんの涙) | 2006. 4. 5 |
”オギャー!” ”オギャー!” 産婦の実家で夜陰を切り裂くような大きな産声が、辺り一面に木霊した。 そこに集まっていた誰もが、喜びの表現を満面に称えていた。 先程から声を発するでもなく、只ひたすらに心配顔で下を向いて押し黙っていた男が、 一声「おつ!どっこいしょ」と言葉にならないような掛け声のような 言葉を発して、やおら立ち上がると、 今赤ん坊の産声が聞こえてきた方に歩みを進めていた。 今、人生最大の難所を乗り越えて、ようやく一仕事を終えたような安息の顔をしている自分の妻にむかって、 先程の一声とは違う人間が発しているような小さな、優しさと思い遣りの篭った声で話し掛けた。 「いがったの、ご苦労」 「オメさ似で、色白でかわいい女の子だの」 「まずいがった!いがった!」 その声のした方に顔だけ振り向けて、妻は体の芯から疲れ切ってしまいながらも、 笑顔でただ一つ頷いただけでした。 「いがつた!いがった!」 「まず、いがつた!」 夫のその言葉を聞いて、妻は目から一筋の澄み切った涙の雫を流しながら、もう一度頷いただけでした。 もう、あれから何年が過ぎたのだろうか。 その時の赤ん坊は、自分もその時の母のような小皺を1本2本と額に寄せながら、 病室の窓際に立って遠くの景色を見遣っていた。 もう、あれから何年が過ぎたのだろうか。 自分が辿って来た道程を振り返りながら、 傍の病室のベットに横たわって静かに寝息を立てている母親の顔をそっと見詰めていた。 自分を産んでくれた母親が、今、静かに旅立とうとしている。 今まで、この母親に私は何をしてこれたのだろうか。 いや!ただ甘えるだけで、母親だから何でも適えてくれる筈だと、頼りきって来たのだろうか。 あの、若い時の福与かさで満ち溢れていた頃の母の顔は、ここにはない。 痩せ衰えて骨の形が見え隠れするような姿になった母を、直視する勇気は私には無い。 「母(かあちゃん)、ごめんね」 「母(かあちゃん)の喜ぶことをどれだけ私はやって来れたんでしょうね」 「母(かあちゃん)、ごめんね」 そんなことを考えると、思わず涙が満面に溢れ、周りの景色を遮ってしまつた。 何時かは訪れる別離の道。 自分も何時かは避けて通る事の出来ない道。 その母の道まで静かに歩みを併せるが如く、 傍にある小さな椅子に腰を落として、もう一度母の顔を覗き込んで見た。 母に分けて貰った、この温もり。 私の明日に夢を賭けて、一生懸命に育ててくれたこの小さくなった母の手。 母の指の1本1本を見ながら、私は声を立てずに素直な気持ちで、流れる涙を拭くことも出来ずに、 じっと、じっと、溢れ出た涙で見えない顔で、母の顔を 眺めていた。 母(かあちゃん)、楽しかったよ。 母(かあちゃん)、苦しいこともあったけど、皆で頑張ったよね。 頑張ったよね! 「母(かあちゃん)、ありがど」 「ありがどの、母(かあちゃん)」 もう、いいんだよ、母(かあちゃん)。 あど、ゆっくりしてくれ!あどは、何も心配いらねさげ。 あど、ゆっくりしてくれ! まだ、逢えっさげ。ゆっくりしてくれ! 母(かあちゃん) ふと見上げると、母の目から一筋の涙が流れ落ちるところでした。 その涙が私に見せた母のたった一度の涙でした。 - 了 - |