■ 第三部 海の見える丘 | 2006. 7.22 |
今にも粉雪が舞い降りてきそうな肌寒さが感じられる酒田駅に着いた。 冷たい横殴りの雨が、傘を差している意味もなさそうな感じで、無常な冷たさを持って私に降り掛かってくる。 母さんの涙雨かな。 もう帰京の時間が見えてきた。 それにしても随分と冷たいね、母さん! 運命なんだよ、母さん! 何時までも息子や娘を傍において置けるわけも無いんだよ。 何時かは遠く離れて暮らすんだよ。 この宇宙の存在から見れば、本当にささやかなもんだよ。 人間の感情なんてもんは...... しかし、それでも親と子は親子なんだよね。 頑張ってよ,母さん! 少しでも長生きする事だよ。 そうすれば叉逢いに来れるではないか。 亡くなってから逢いに行っても、花実も咲かないもんね。 .......... 今にも粉雪が舞い降りてきそうな冷たい雨が降りしきる駅の傍のお土産屋のガラス越しに 窓の外を見遣りながら、私は独り言でそう語りかけていた。 今日は4月20日(木)。 帰京の旅は目の前に入ってきた「いなほ号」で始まる。 .......... 車窓からは荒波の日本海。 横殴りの雨と風のために、白波を立てて岩に砕け散る荒波、また、荒波。 そんな様相も、越後寒川(かんがわ)、越後新川あたりから、荒涼たる荒波の日本海を避けて 内陸へと入っていく。 そして、村上、中条、新発田と「いなほ号」は走って、はや12時35分。 ここから見える工業地帯と線路に平行線で並ぶ桜並木の、何とすばらしいことか。 延々と何百Mも続いたような気がする。 そして豊栄(とよさか)12時47分。 桜街道と越後平野の真中を走る感じで「いなほ号」は走る。 そして、その真中を流れる一級河川の「阿賀野川」。 そんな景色を眺めながら13時に「新潟駅」に到着した。 ここからが何時も嫌な思いをする。小走りに新幹線に乗り換えるのだ。 13時10分発「MAXとき326号」に乗る事になる。 .......... 2歳半の孫が乗り物が大好きで、その中でも特に新幹線が大好きである。 新幹線の名前は、大抵の車種は言える。 どうやって覚えられるのか本当に不思議だ。 間違った名前を言おうものなら、すぐに回答が返って来る。 「ジジ! 違うよ」 「それは....よ!」 「....なの!」 新幹線を見ると、カメラを持っていれば,自然に構えて写真を撮る習慣が私にも出来てしまった。 孫の喜ぶ顔をどうしても思い浮かべてしまうから。 .......... 新潟を出た新幹線も、燕三条、長岡、浦佐と順調に走り出している。 14時02分。越後湯沢に到着して、びっくり! 一面の「銀世界」である。 日本も広いなあ、と思う。 この銀世界を撮ろうと思い、流れる車窓に愛用のカメラを向けて、連写でシャッターを切る。 .......... 浦佐を過ぎてまもなく、長い長いトンネルの中。 今終わるか、今終わるかと思うのだが、延々と続くトンネルである。 ようやくトンネルを出ると、「越後湯沢」に到着した。 そこを過ぎると、また長い長いトンネルの中となる。 真っ暗な中に「MAXとき326号」のスピードだけが強調されたように、車窓の外の景色が 後方に飛んでいくトンネルの流れである。 何時しか諦めて真っ暗なトンネルの中の景色から、目を閉じて故里のあの小高い丘の上から 見た、海の彼方を思い出していた。 .......... この丘の上に立って、じっと遠くを見据えて身動きもしないでいる私の姿に、誰も目を留める人も居ない。 この私が、どのような想いで一人佇んでいるのかは、誰も想像の仕様も無いのだ。 .......... 春の始まりの桜が漸く花をつけて、人々の目を和ませてくれている。 新緑の息吹がこの丘の上の周囲にも色を添えて、あの荒涼とした白銀の世界から解放されて 芽を吹き出している。 そんな故里の夜明けに、この様な姿で郷愁を募らせているとは、誰が想像できようか。 大志の中の夢も希望も捨て去り、今を生きる為の生きがいに明日を求めて汲々としている、 この私の内面の苦悩を、誰が想像できるであろうか。 この世に生を受けたものは、何時かは滅んでいく。 栄華の夢の何と儚き事か。 永久不変の生命の存在を肯定できる何物も無い。 栄枯盛衰は世の常なれば。 永劫回帰(えいごうかいき)をもって、父の母の今を大切に見守っていくしか無いのか。 それが、自然なのだと自分を納得させている。 周りに誰も居ない事を知っていた私の目からは、大粒の涙が止め処も無く流れて落ちていく。 誰に遠慮が要るものぞ! 誰の為のものでもない。 己の為に流す涙であればこそ。 .......... 老いてなお束の間の夢幻を見るが如く。 遠くの海の彼方を見詰る目線は、何とは無く爛々と光り輝いている。 有為転変の時代の流れに翻弄されながら、細々と繋いできたこの自身の生命の炎を、 これからも燃やし続けていく事に少なからず疲労感を覚えながらも。 .......... 幼少に小島の野山で自然の恵みと供に遊んだ頃の、幻影を目線の先に捉えながら、 小さく小さく何度も何度も自身の想い出を駆け巡っては頷いていた。 口の周りを紫色にしながら、夢中でほうばった桑の実。 岩盤に根を張りながら山肌を這っていたグミ木の赤い実を摘んでは小籠に入れていく。 つるのような茎を伸ばして広がり、白い五弁の花を咲かせ、赤い実を出してひっそりとして 摘まれる時を待っていた、野イチゴの群れ。 黒茶色になり縦に割れ、白くて甘い果肉をあけて実るアケビの木を見ては、歓声をあげて 喜色満面にほくそえんだ子供の頃の時代。 そして、遠く水平線の彼方の都会の空に想いを馳せた頃。 .......... そんな子供の頃の懐かしい想い出は、枯れ野に吹き荒ぶ季節風がその肌身に染み込んでいこうとも、 何時も枯れる事も無く、走馬燈の如く蘇っては消え、また、映し出しては消えていく。 有為転変。 艶々した肌身に、自信に満ちた笑顔を湛えていた父親の姿。 福与かな優しさを湛えた満面の笑みの母親の姿。 そんな安らぎの想い出も、時代の幾星霜の流れとともに想い出の中に埋没して行ってしまうのか。 この世の物事は、すべて常に変化して止まないと言う現実を、静かに受け止めながら。 この海の見える丘の上で、いつまでもいつまでも帰る道を忘れた老人のように、佇んでいた。 ただ遠くの海の彼方から目線を逸らしまいとしていた。 ずーとずーと。 何時までも。 ------ 完 ----- |