■ 夢をもとめて 2006. 4. 5

太郎が悩みに悩んだ末の結論は、次郎を養家から戻してまた昔のように四人で暮らそうということでした。

 そうだ、お父さんとお母さんにお願いしよう。

太郎は、今まで悩んできたことを伝えました。
自分で考えた将来の夢も全部話しをしました。

お父さんが言いました。

「また四人で一緒に暮らそう」

太郎は言いました。

「お父さん!お母さん!ありがとう」

障子の外には、朝日の光が明るく照らしていました。


 悲しみは、何時かは忘れてしまわなければいけないことです。

  寂しさは、何時かは乗り越えていかなければいけないことです。

  喜びは、その後に何時かは芽生えて来ると信じたいものです。

自分がこの手で掴んだと思うものは、何時かは自然の流れの中で消えていくものであるならば、
その自然の流れの中 に身を置けばいいのではないかと。

そして、自分が失なったと思ったものが、何時の間にか後ろについて来た者がそれを掴んでいるのです。

それが輝いているものなのか、大きなものなのか、小さくて醜いものなのかは、問題にはならないことで、
自分で推 し量ることが出来ないものであると思う ならば、自然界の流れに逆らっていくことは、
必要のないものかとも思える 。

その後について来た者が考えれば良い事かと。

どんなに多くの人々を目の前にしていたとしても、どんなに咲き乱れた花を見詰ていたとしても、
自分が見詰るもの は一握りの人々であり、花であるかと。

そこにある「輪廻」。

人間が前世・現世・来世の三世(さんぜ)の長きに渡って繰り返してきた、因果、応報を受ける。

まさしく「流転」の流れの世界に静かに身を任せて、それを受けていくことが「人」としての定めなのかと。

忘れ得ないものを忘れ去ろうとする心は、誰でも持てるものではないかも知れない。

しかし、忘れ去ろうとしたこと のなかで、自然に自分の後に続くものを 認めることが出来るのではないかと。

後ろ向きで私の膝に抱かれていた孫が、急に振り向いて「じいちやん!」と笑顔で言ったときに、
「なぁに、、」と 言いつつ何時までも続くことの無いこの 自然の流れに、
どんなに心苦しい思いを抱くことか。

終わりの無い世界を望んでも、淡く、儚い夢想いであることは、誰もが否定の出来ない現実であり、
せめてこの一時 を、せめて許せる数少ないこの幸福を、
続けることの出来る時間を失いたくないものと。

振り向けば゜、振り向くほどに自分を苦しめることになるかと。

残されたものの愛物語を信じて。

そして、これから続くものに自分が与えてあげる物を捜して生きて行く姿こそ、大切なものであることかと。

夢をもとめて

明日に夢をもとめて、、、、、。