■ 雑 記(つれづれなるままに) 2006. 4. 5

 随分と前の出来事になるでしょうか
今のようにカメラを携えて「富士山」の撮影に夢中になって出掛ける日々の無い時の事です。

ある日、江ノ島の磯に我が君と一緒に釣りに出掛けた時の事です。江ノ島の裏側の磯づたいに小さな沖合いの磯に渡って釣り糸を垂れたのです。

私は生まれが海育ちで、釣りにかけては玄人と自負しており、海の怖さも美しさも総て知り尽くしていると自信を持っていました。
我が君は、何時もの事で私の傍で椅子を作って座っておりました。時間にしてどれ位の時が過ぎたのか忘れましたが、お昼のおにぎりを食べ終えて、ふと周囲を見回すとだいぶ水嵩が増えてきておりましたが、何の気もせずに釣り糸の先に神経を集中させていたのです。

我が君も、多少待ちくたびれて飽きてきてもいたのでしょう。「私は向こうの浜辺を散歩してきますから」と言ってその磯を離れて行ってしまいました。

ふと気づくと、迂闊でした。

自分は海育ちで、海のことは大抵の事は知っていると自負していました。

何と!迂闊でした。

私はその日の潮の「満ち干」を調べていなかったのです。
どんどんと満潮時が近づいて来ていて、朝方に渡って来た小さな磯は潮の随分と下に隠れてしまっていたのです。見ていると、後から後からどんどんと潮の流れとともに、水嵩が増してきたのです。

何と!迂闊な!!
自分自身が信じられませんでした。
自分とした事が、何と!浅はかな!

このままでは、下半身を水の中に入れて渡って行かなければならなくなりそうでした。当然に長靴を履いていましたが、もう無理な状況に近づきつつあったのです。
少しの間、私はずーと下を見詰て、潮の流れを見ていました。そういう意味では、子供の頃から自然に身のついた、潮の流れを読むという意識の外にある観察の心でした。
潮が沖合いに引いて、また戻って来る。その繰り返し。

私は周囲を見回しました。
何と周囲に居た人達は、何十人も私を見詰ていたのです。
私はそれを見て、一瞬びつくりしました。ただ、決して慌てませんでした。すぐ足元を見詰て、先程のように潮が沖合いに引いて、また戻ってくる。その繰り返しを見詰ながら、口元で数を数えていました。

1.2.3、、、、

幾つ数えたら潮が引いて、幾つ後にまた潮が戻ってくる。
一分、二分、三分、、、、、
私は数え続けたのです。

どの位の時間が経ったのか。時計を見る余裕は有りませんでした。しかし、私は決して慌てませんでした。自分がこの危機を渡れる時が見えてきたのです。
私は決心をしました。手にはいっぱいの釣竿やケースを持っています。周囲の目は、全然気にはなりませんでしたし、私の視界の中には入っていませんでした。我が君も見ていることでしょう。しかし、そこには自分だけが存在するだけなのです。

1.2.3.、、、、
今だ!

潮が沖合いに引いた一瞬を見てとって、私は左足から右足と躊躇せずに運んでいきました。沖合いから続きの潮が押してくるのを感じながら、左足、右足と、どんどんと運んでいきました。
無事に戻る事ができて、我に返った時には体中に汗が流れ出ていました。
ああ!何と迂闊だったことか!!

時として自身は己を見失う事がある。
自分の存在は自然の摂理に比ぶれば、何と浅はかなものだろうか。
その時を境にして、私の中に何かが変わったような気がしました。
今の境遇が自分の総てではない。
自分の考え方や見る目を変えることで、色々な境遇や生き方が出て来ることではないかと。
それは他人が教える事ではなく、自分自身が自然の摂理に従って生きながら、身に付けていくことではないかと。
そこから喜びも幸せも生まれて来ることなのかと。
夢を信じて、安らぐ心を大切にする気持ちを明日に向かって!!