2011年11月08日
阿部千万太と桂太郎~秋田戦線ツアー2010 その10
今週の銀魂は三馬鹿…じゃなかった(笑)攘夷志士祭り でテンションMAXでしたvv
きゃーん 最高~~~っっ☆
これで高杉も加わっていればなあ。。。惜しいっ!
つか、レン☆ウとかダー☆ベイ☆ーとか、かなりギリギリ路線を突っ走っていますが 大丈夫なんでしょうか(泣笑)。
ま、今更これしきのことで、打ち切りになるなんて有り得ないか(笑)。
秋田戦線ツアー、角間川戦の続きです♪
きゃーん 最高~~~っっ☆
これで高杉も加わっていればなあ。。。惜しいっ!
つか、レン☆ウとかダー☆ベイ☆ーとか、かなりギリギリ路線を突っ走っていますが 大丈夫なんでしょうか(泣笑)。
ま、今更これしきのことで、打ち切りになるなんて有り得ないか(笑)。
秋田戦線ツアー、角間川戦の続きです♪
覚善寺には、戊辰戦争角間川戦で亡くなった秋田藩士・渋川謙之進&田所養蔵&山県此作3人の墓があります。
場所はこちら。
とても静かなひっそりとした小さなお寺です。
てか、この時のワタシは車酔いマックスの時
あまりに酔いが激しすぎて、正直あまり憶えていない。。。(汗)
船通寺も小さなお寺です。
場所はこちら。
ここには庄内藩士・阿部千万太(ちまた)の墓があります。
阿部は松平甚三郎率いる一番大隊の探索方をしていましたが、敵陣に深く入り込みすぎて捕まり処されてしまった、惜しい人物。
千万太さんは敵方の長州藩隊長・桂太郎に対し、
「此度庄内勢ノ秋田ニ打入シハ敢テ逆ヲ謀ルニ非ズ。
是迄庄内藩ガ朝廷ノ為徳川氏ノ為ニ鞠躬尽力セシ功労モ水泡ニ属シ、鎮撫使ヨリ征討ノ師ヲ向ケラルゝモ闔藩其罪ヲ知ラズ。
其の冤枉ヲ解ント使節ヲ派遣スルモ、中途ヨリ追返サレ、藩情ヲ通ズルニ道ナシ。
空敷冤罪ヲ被ムルヲ怨ム故ニ、士民挙テ藩志通達センコトヲ欲シテココニ至ル。豈止ムヲ得ルモノナランヤ。
若シ藩志ヲ通ジ冤罪を解クコトヲ得バ、死ストモ怨ミジ」(句読点濁点Aki)
と訴えます。
仙台藩が世良修蔵を殺害し、長岡藩が岩村精一郎と交渉決裂し、会津も庄内も朝廷に背く気がないことをいくら訴えようとしても一刀両断、誰も聞く耳をもってくれない。
ならば自分が命を張ってその役を引き受けようと、庄内の藩是を桂太郎に訴えたんですね。
んもう! 本当にオトコマエ すぎるよ、千万太さん…。
実は千万太さん、諸国は勿論のこと蝦夷地まで足を運び、地勢や海防を調査して幕府へ「国防」を上申した人物です。
また儒臣として、沼津藩水野家でも活躍もした素晴らしい御仁でもあります。
イバハチ関連で、沼津藩にはめちゃくちゃ強い思い入れがあるワタシvv
短期間ながら千万太さんが沼津藩に仕えていたと知って、超嬉しかった!
戊辰戦争が始まったため、千万太さんは地元・庄内に戻り、藩のために尽力しようと奔走します。
で、上記の策に出るのですが、千万太さんの訴えを聞いた桂太郎…さすが世良や岩村とは態度が異なっていた!(泣笑)
「これまで沢山の人と接してきたが、これほどまで肝が据わった人物を初めて見た。これは殺してはならん!」
と千万太さんを殺さぬよう、部下に命じます。
千万太さんをひとかどの人物 としてちゃーんと見抜いたんですよねvv
タローちゃん、さすがだよ!
ところが、戦時の混乱に乗じて千万太さんは兵士に殺害されてしまうのです…。
享年48歳。
国のため、そして祖国・庄内のために最期まで志を捨てなかったサムライが、また1人失われたのでした。。。
全くヒドイ話です。
確かに誰でも「武功を上げたい!」「憎き敵軍!奸賊め!」などと言う気持ちが、特に戦闘状態時には高騰するものですが、それにしても隊長の命を破って殺してしまうとは…
長福寺には、花館戦で戦死した薩摩藩士12名の墓があります。
場所はこちら。
花館戦は一番大隊が薩摩藩他と戦った戦なので、詳細はよく分からないのですが(その頃、わが愛しの玄蕃さま 率いる二番大隊は神宮寺で矢島藩&秋田藩と激闘中)、庄内藩一番大隊は薩摩陣屋に夜襲を決行し勝利したようです。
戦死者はその時のものと思われます。
ここに至っては、もはや東軍も西軍もどちらも必死です。
生半可な志では、命がいくらあっても足りません。みーんな、必死!
みんなが“明日をも知れぬ我が身”だったんですよね。。。
■続きはこちら↓
1掃苔を噛み締める(宮城仙台)/2星恂太郎と仙台藩の軌跡(宮城仙台)/3玄蕃さまと舟形戦(山形舟形)/4玄蕃さまと新庄戦(山形新庄)/5仙台藩と金山戦(山形金山)/6玄蕃さまと銀山戦(秋田院内)/7玄蕃さまと横手戦(秋田横手)/8横手めぐり(秋田横手)/9寺内小隊長ダップン場所(秋田角間川)/10阿部千万太と桂太郎(秋田大曲)/11玄蕃さまと神宮寺岳(秋田大曲)/12玄蕃さまと刈和野(秋田刈和野)/13玄蕃さまと峰吉川(秋田峰吉川)/14最終玄蕃さまと久保田城(秋田秋田市)
場所はこちら。
とても静かなひっそりとした小さなお寺です。
てか、この時のワタシは車酔いマックスの時
あまりに酔いが激しすぎて、正直あまり憶えていない。。。(汗)
船通寺も小さなお寺です。
場所はこちら。
ここには庄内藩士・阿部千万太(ちまた)の墓があります。
阿部は松平甚三郎率いる一番大隊の探索方をしていましたが、敵陣に深く入り込みすぎて捕まり処されてしまった、惜しい人物。
千万太さんは敵方の長州藩隊長・桂太郎に対し、
「此度庄内勢ノ秋田ニ打入シハ敢テ逆ヲ謀ルニ非ズ。
是迄庄内藩ガ朝廷ノ為徳川氏ノ為ニ鞠躬尽力セシ功労モ水泡ニ属シ、鎮撫使ヨリ征討ノ師ヲ向ケラルゝモ闔藩其罪ヲ知ラズ。
其の冤枉ヲ解ント使節ヲ派遣スルモ、中途ヨリ追返サレ、藩情ヲ通ズルニ道ナシ。
空敷冤罪ヲ被ムルヲ怨ム故ニ、士民挙テ藩志通達センコトヲ欲シテココニ至ル。豈止ムヲ得ルモノナランヤ。
若シ藩志ヲ通ジ冤罪を解クコトヲ得バ、死ストモ怨ミジ」(句読点濁点Aki)
と訴えます。
仙台藩が世良修蔵を殺害し、長岡藩が岩村精一郎と交渉決裂し、会津も庄内も朝廷に背く気がないことをいくら訴えようとしても一刀両断、誰も聞く耳をもってくれない。
ならば自分が命を張ってその役を引き受けようと、庄内の藩是を桂太郎に訴えたんですね。
んもう! 本当にオトコマエ すぎるよ、千万太さん…。
実は千万太さん、諸国は勿論のこと蝦夷地まで足を運び、地勢や海防を調査して幕府へ「国防」を上申した人物です。
また儒臣として、沼津藩水野家でも活躍もした素晴らしい御仁でもあります。
イバハチ関連で、沼津藩にはめちゃくちゃ強い思い入れがあるワタシvv
短期間ながら千万太さんが沼津藩に仕えていたと知って、超嬉しかった!
戊辰戦争が始まったため、千万太さんは地元・庄内に戻り、藩のために尽力しようと奔走します。
で、上記の策に出るのですが、千万太さんの訴えを聞いた桂太郎…さすが世良や岩村とは態度が異なっていた!(泣笑)
「これまで沢山の人と接してきたが、これほどまで肝が据わった人物を初めて見た。これは殺してはならん!」
と千万太さんを殺さぬよう、部下に命じます。
千万太さんをひとかどの人物 としてちゃーんと見抜いたんですよねvv
タローちゃん、さすがだよ!
ところが、戦時の混乱に乗じて千万太さんは兵士に殺害されてしまうのです…。
享年48歳。
国のため、そして祖国・庄内のために最期まで志を捨てなかったサムライが、また1人失われたのでした。。。
全くヒドイ話です。
確かに誰でも「武功を上げたい!」「憎き敵軍!奸賊め!」などと言う気持ちが、特に戦闘状態時には高騰するものですが、それにしても隊長の命を破って殺してしまうとは…
長福寺には、花館戦で戦死した薩摩藩士12名の墓があります。
場所はこちら。
花館戦は一番大隊が薩摩藩他と戦った戦なので、詳細はよく分からないのですが(その頃、わが愛しの玄蕃さま 率いる二番大隊は神宮寺で矢島藩&秋田藩と激闘中)、庄内藩一番大隊は薩摩陣屋に夜襲を決行し勝利したようです。
戦死者はその時のものと思われます。
ここに至っては、もはや東軍も西軍もどちらも必死です。
生半可な志では、命がいくらあっても足りません。みーんな、必死!
みんなが“明日をも知れぬ我が身”だったんですよね。。。
■続きはこちら↓
1掃苔を噛み締める(宮城仙台)/2星恂太郎と仙台藩の軌跡(宮城仙台)/3玄蕃さまと舟形戦(山形舟形)/4玄蕃さまと新庄戦(山形新庄)/5仙台藩と金山戦(山形金山)/6玄蕃さまと銀山戦(秋田院内)/7玄蕃さまと横手戦(秋田横手)/8横手めぐり(秋田横手)/9寺内小隊長ダップン場所(秋田角間川)/10阿部千万太と桂太郎(秋田大曲)/11玄蕃さまと神宮寺岳(秋田大曲)/12玄蕃さまと刈和野(秋田刈和野)/13玄蕃さまと峰吉川(秋田峰吉川)/14最終玄蕃さまと久保田城(秋田秋田市)