核燃施設受け入れの経緯(〜1979)mikkoメモ
1969年 | 「むつ小川原巨大開発計画」 | 原子力発電の立地にも好適と。鉄鋼、アルミニューム、石油精製、石油化学、コンピューター関連産業の発展までが盛り込まれ、工場出荷額は5兆円、工業従業員は10〜12万人と予定。 |
1971年 | 「むつ小川原開発株式会社」設立 | 国、県、民間企業(150社)の共同出資。県は財団法人「青森県むつ小川原開発公社」を設立。多くの県庁職員出向 |
1972年12月 | 開発公社による用地買収開始 | 村内の開発賛成派反対派の対立激化 |
1973年 | オイルショックが発生 | |
1978年 | 第二次オイルショックとなり開発計画は大幅に変更 | 工業関連の企業が一社も進出しない。 |
1979年 | 計画は石油備蓄基地建設計画に様変わり | 広大な土地の有効利用を名目として、核燃料サイクル施設の建設計画が持ち込まれ、県は全面的に受け入れた。 青森県むつ小川原開発公社(資本金30億円)の持つ土地 工業開発地区5,280ha(工業用地2,800ha) 800億円の負債 利子及び土地管理費などで1986年には1600億円の借入金となる 石油備蓄基地用地として260ha340億円で売却 核燃用地として850ha725億円で売却 残金875億円は増え続けている。 この様な借金地獄に核燃推進は好都合だった。 |
参 考
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