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6月20日 |
今日午後2時、退院することができました。かなり身体的不自由がありますが、退院はうれしいものです。いろいろお世話になった先生方、看護師の皆様に心から感謝します。
自宅に帰ってベッドやテーブルなど、身の回りの用意ができているのを見て父も安心したようです。実家の従兄弟がさっそく様子を見に来てくれました。 |
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5月29日 |
夕食前だというのに横を向いてすねています。最近はベッドの横に座って食事をとっています。起き上がる訓練のために考えた方法でしょう。食事中も訓練なのだ。(上の写真) |
5月30日 |
昼食後見舞いに行くと横を向いて返事もしてくれません。そのあとちょうど叔母(父の妹)と甥夫妻が訪問、ベッドを起こしてしばらく会話が弾む。その後の父は機嫌がよくなりました。現金なものです。 |
5月31日 |
夕食前、余目に仕事に行く途中寄りました。父にとって大仕事の食事が始まります。体を右左に寝返りを打てるようになったのはすごい進歩だと思いました。 |
6月1日 |
今日は元気なし、といっても話すことがないだけかな。眠っているのかなと思っていると時々カーテンをいじったりしているので起きているようです。 |
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6月2日 |
病室が隣に移るそうです。だんだん看護師さんの監視から離れてゆくのですね。テレビを見ていたかと思うといびきをかいて寝ていたりします。 |
6月3日 |
病室が変わり、前に同室だった方とまた一緒になりました。父の様子に表情を感じるようになりました。こうして社会に戻っていくのかな。あさって主治医先生のお話があります。 |
6月5日 |
今日主治医先生のお話がありました。入院当初の病状は回復して薬も今は使うこともない、しかしこれ以上運動機能の回復が望めないので退院を勧められました。明日病院の地域医療相談室に行き退院後の話し合いをしてきます。 |
6月7日 |
介護施設の方とお話もでき、だんだんと退院体制が具体的になってきました。今日は実家の伯母、従兄弟などがお見舞いにきてくれてとてもご機嫌でした。 |
6月9日 |
今日、市役所から「要介護認定」通知と「介護保険被保険者証」が届きました。要介護は4となっていました。父に保険証を見せると手にとって10分も眺めていました。受け容れるのに複雑な心境かもしれません。 |
6月12日
母の月命日 |
父に家に帰ったら車椅子を使いたいか聞いてみました。父にその気はないみたい。家の改装の参考意見として聞いておきたかった。でも少しはベッドの回りを自力で動くことをしてもらいたい。 |
6月13日 |
病院の地域医療相談室で、相談員・介護施設担当者と私で介護計画を立てました。退院日も20日と決めました。父に告げるとほっとした様子。家の改装は自力で移動できない現状では見送りです。 |
6月15日 |
光ヶ丘にある介護施設「ヘルパーステーションこだま」にて訪問介護、居宅介護、通所介護についての細かい打ち合わせをし書類を作成しました。明日自宅に介護用ベッドなどの搬入があります。 |
6月17日 |
昨日と今日、病室訪問の際に看護師さんにおむつ交換の手順を教わりました。明日は床ずれの手当てを教わります。 |
6月19日
父の日 |
夕食前に床ずれの手当てを行いました。最後の夕食だねと、看護師さんに言われ、父は指を丸くして目に当てたりしておどけていました。明日は退院なので、いつくるかというようなことを言っていました。父の食事を一さじずつ味見しました。 |
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5月16日 |
今日、叔母(父の妹)と従兄弟(父の甥)が見舞いに来たと言っていました。聞きづらいので入れ歯をすればと言っていますがどうも合わなくなったようです。なんか悟ったように落ち着いています。(上の写真) |
5月17日 |
だいぶひげが伸びたので電気かみそり機で剃ってあげました。隣でも床屋さん?が患者さんの散髪をしていました。髭剃りあと、にこっと笑う父がとても印象的でした。 |
5月18日 |
今日は市役所から介護保険の審査の方が病室に来られ父の状態をチェックしていかれました。担当の看護師さんとの話し合いもあり現在の父の様子が私にとってもいい確認になりました。 |
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5月19日 |
手と足の爪を切りました。深爪しないようにちょっと長めで我慢。足のむくみがあるというので看護師さんに言われダンセイストッキングを購入(ダンセイは弾性なんだそうです。てっきり男性用ストッキングかと) |
5月20日 |
酒田祭として最上の天気です。今日は祭だね、と父に言いました。見に行こうかと冗談で言うと「動かんね」という動作。 |
5月21日 |
家に帰れるようにリハビリがんばってと言いました。食事は何とかなるからベッドから起き上がれるようにと。少しやる気を起こしてもらわなくちゃ。 |
5月22日 |
お祭は過ぎたが何か祭らしい食べ物でも持っていこうと思っていたが仕事が長引いて作る時間が有りませんでした。お見舞いの方がカステラを持ってこられたので一口食べました。 |
5月23日 |
今日は父と経済の話をしてきました。先月の入院費がいくらかかったか、そして今日今月分を払ってきたこと。そして私にはお金がないので父の預金を下ろしてきたことを告げると、父はにやっと笑いました。 |
5月24日 |
自宅の様子、自宅に訪ねてきた人のこと、何を話してもわからないという顔をすることはなく言葉が聞きづらいほかはまったく正常です。 |
5月25日 |
弾性ストッキングのおかげで足のむくみがほとんどひきました。手をかざしてこんなに痩せてという身振りをしますが、太ったら体を動かすのがたいへんと私は言いました。 |
5月26日 |
今日は私のおなかの調子が悪かったのでほlとんど話をしなかったのでちょっと心配した父の顔、病院に着くなりトイレに駆け込みました。夜になり治まりました。 |
5月28日 |
昨日はいつものように話していたので父も安心した様子。今日は見舞いに行くとお風呂に出るところでした。車椅子に移動する父の様子がだいぶ力が出てきたかな。でも自力では無理です。 |
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4月22日 |
(上の写真)昼食後見舞いに行くと、すっかりくつろいでいました。窓際には満開の桜の花瓶があります。イヤホーンをつけてテレビを見ていました。私はベッドの手すりにもたれて小一時間昼寝をして帰りました。 |
4月23日 |
しばらく会話をしていて途中で気がつきました。今日は話す言葉がわかると思ったら入院後初めて入れ歯をしていました。それくらい父との会話は音声ではなかったんだと思いました。 |
4月24日 |
夕方6時20分に行ったのにもう食事が済んでテレビを見ていました。お茶はまだ残っていました。途中眠ることなくテレビを見ています。帰るとき「出勤だが」と言います。「今日は日曜日だ、もう閉店」と言うとそうかという顔をしてました。 |
4月25日 |
今日カテーテルが外れました。これで体についた線はなくなりました。明日からリハビリを行うので運動のできる上下の服とズックを用意してくださいとのこと。探して明日の朝持って行かなければ。 |
4月26日 |
看護師さんに父の回復はどのくらいを目標にするかと聞かれました。いよいよ退院間近かなあ。自分でトイレにいけるようになったら、と返事しました。帰りがけライブカメラを買ってきました。塾から父の様子を見ることができるからです。(これができたら父が塾の様子を見ることができるカメラをつけようと思います) |
4月27日 |
今日午後、私が見舞いに行った後ですが、4人部屋に引っ越しました。父にとってもだんだん社会復帰の訓練ですね。 |
4月28日 |
昼食が終わったところに行きました。200ccの牛乳パックを飲み干していました。水分補給は大丈夫。看護師さんに言われて市役所に介護保険の申請に行って来ました。 |
4月29日 |
今日は誰か男の人がお見舞いにきたといいます。夕食時に行きましたが全部食べる気はないようです。最後に看護師さんに押し込まれていました。 |
4月30日 |
昼食後くつろいでいるところに行きました。今日は2時からお風呂でしたので見送って帰ってきました。今日は暑い日なのでお風呂も大変かも。 |
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5月1日 |
今日は父の足をマッサージしてきました。2ヶ月寝たきりだと足も腰もすっかり硬くなっています。入院した頃はあんなに重態だったのにトイレに行こうとしてベッドから落っこちたことがありましたが最近はすっかり病院なれしてしまってトイレに行く意欲も起きないのでしょうか。それでも今日は車椅子で看護師さんに連れ出してもらったそうです。 |
5月2日 |
同室の人の話だと午前中、大きなうんこが出たそうです。大便のほうが自分で出せるようになったようでひと安心。でも父としては衆人監視の中で用を足すのは恥ずかしかったでしょう。 |
5月3日 |
ほとんど入院の経験のない父にとって他人に世話をやかれるのはつらいことと思います。でも受け入れないと生きていけない、最近の落ち込みはそんなところかな。 |
5月4日 |
昨日に続いて今日も夕食後お見舞いしましたが、待っていたように話し掛けてきました。今日は元気がいい。 |
5月5日
子供の日 |
今日は昔の同僚が二人見舞いに来てくださいました。そのせいか少し力強く見えました。向かいの患者さんがどんどん元気になるねといってくれました。 |
5月6日 |
今日も昔の同僚の方がお見舞いにきてくれました。看護師さんにリハビリ計画をお見せいただきサインしました。当面の目標は体を起こしていることができるように、です。 |
5月7日 |
テレビを見ててもうとうとしてしまいます。でも話し掛ける内容はしっかりしているし。毎日の変化に精一杯なのかも。 |
5月8日 |
今日はいただいたヒレカツサンドを持って夕食事に伺いました。ヒレカツはとても柔らかく小さく切って一切れほど食べました。父の叔母が今朝亡くなったことを伝えると香典の心配をしてくれました。 |
5月9日 |
リハビリのときはくズック靴が小さいので大きいのを探してくれという紐のない大き目のズックとトレパンを買ってきました。 |
5月10日 |
新しいズックとトレパンは履けたか聞きましたが、午前のリハビリで疲れてしまったのか横を向いたまま生返事でした。 |
5月12日 |
昨日は出張の仕事が忙しくて見舞いに行けませんでした。今日行ってみると着替えがない、下のほうのパッドがない、テレビカードが切れかかっているなどいろいろ用意するものがありました。父は大好きな相撲を見ていました。 |
5月13日 |
向かいの患者さんの話ですが、毎朝主治医先生が診にきて毎日よくなっていくとおっしゃっていたとのこと。ベッドの上の父の身のこなしも大部力強くなってきたと感じます。 |
5月14日 |
今日はテンションが上がっていました。昼食の食べっぷりもよかったし、牛乳パックを一気に飲み干すので「ゆっくりかみながら…」などと自分が昔言われたようなことを父に言ってました。 |
5月15日 |
父の様子をよく話してくださる向かいの患者さんが病室を換わっていました。元気になったのでナースステーションから離れたところに移されたようです。代わりに二人の重症の患者さんが入りました。2ヶ月前の父のようです。父のベッドのそばには看護師さんたちが書いた「おうちに帰られるようにがんばりましょう」というカードが貼られていました。 |
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2005年4月18日(展望レストランにて?) |
4月18日 |
お昼に見舞いに行くと車椅子に座って食事をしていました。顔を合わせるなり「最高だの、最高だの」と言います。何が最高なのかというと今日の鳥海山のことらしい。1ヶ月前ICUから出て今こうして自分で食事をしている気分は鳥海山の頂上でおにぎりをほおばっている気分なのでしょう。 |
4月19日 |
私の耳が慣れたせいか、父の話し方が上手になったせいか話がだいぶわかるようになってきました。入れ歯の装着テストはまだです。点滴を外したので食後のお茶を全部飲むように応援してきました。 |
4月20日 |
昼食後行ったらベッドに戻って昼寝をしていました。日に三度の食事は父にとって大仕事なのでしょう。車椅子からベッドへの移動もまだ自分ではできませんがこれも訓練の課題。今日高校の同期生からいただいた桜の枝を花瓶に生けてきました。 |
4月21日 |
今日は私の調子が悪い、どうも風邪をひいたらしい。それでも午前中に父のところに行きました。父のほうが元気そう。 |
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2005年4月13日(自分で食べられるようになった。) |
4月13日 |
今日は午前中看護師さんに車椅子に乗せてもらったそうです。昼食のときはちゃんと自分でさじをつかって食事をしてました。目覚しい回復力にびっくり。看護師さんたちのリハビリ計画の賜物ですね。 |
4月14日 |
最後まで自分で食べることができず、最後は私が手伝いました。食べては窓の外を眺め思い出したように食べ始めます。デザートに桃ゼリーを半分食べ残りは私がいただきました。今日のお粥は粒々のままでした。少しは食感があったかも。 |
4月15日 |
今回の病気を通して父の意外な面を発見しました。父はまったくの堅物でお世辞の言えない人でした(根は優しくて思いやりがある)。病気が快方に向かって看護師さんたちに世話をしていただいている時、おどけた顔をしたりのんきな返事をしたりでその場の雰囲気を和ませてくれます。お年寄りの世話は何かと大変といいますが、父については子供を世話するような楽しさをふりまきます。 |
4月16日 |
お昼に間に合わずに行ったら食休みしてました。月曜から点滴を外す予定と看護師さんの話。カテーテルはじょくそうがあるのでまだ外せないとのこと。 |
4月17日 |
夕食後行ったらテレビを見ていました。食事はうまく食べたようでした。入れ歯がないのでふがふが言って話しているのですが、よくわかりません。明日は固定シートが手に入るので試してみたい。 |
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2005年4月5日(昨晩からおかゆを食べ始めました。昼食後、すこしベッドを起こして) |
4月5日 |
部屋に入るなり、ベッドを起こしている父はいっぱい話してくれました。でも声が漏れているので意味は分かりません。私の仕事のことを心配しているのだろうか。窓の外を眺めてまた何か言っています。 |
4月6日 |
窓の外を見ながら「今日はいい天気だの」というのがわかりました。昼食を取るのを見ていたかったが仕事で昼前にかえってきました。今度は昼食時に見舞いに行って食べっぷりを拝見することにしよう。もちろんまだスプーンを使ってですが。 |
4月7日 |
今日は昼食時に行ってさじで父に粥を食べさせてきました。元気に飲み込みます。全部(と言ってもお椀で軽く2杯分)食べてくれました。 |
4月8日 |
今日のお昼もかゆ1杯と味噌汁1杯をしっかり食べました。入れ歯がないと唇からこぼれるので入れ歯を入れてみましたが1ヶ月以上の治療の間に口の形が変わってしまったのかうまく利用できませんでした。まず自分で器やスプーンをつかむ練習から。今日は看護師さんのやり方を見てました。 |
4月9日 |
今日昼食はお粥と味噌汁の他にくるみ味噌和え(いずれもペースト状)が付きました。看護師さんにカレーライスのさじを持ってきてくださいといわれたのでこれを使って食べさせました。最後にプチゼリーもついていましたのでひとつ食べました。もう一個すすめると「もういっぺなた」というのでおしまいにしました。 |
4月10日 |
日曜日は夕方から父のところに行きますが、今日は自治会の総会があってその後の親睦会に出てかなり酔っていてタクシーで到着。看護師さんの話では7度の微熱があり夕食は2、3口しか食べなかったそうです。
部屋も隣の二人部屋に移っていました。今日の父は元気がありません。自治会総会があったことを話しベッドのそばで酔いを覚ましてまたタクシーで帰ってきました。もっと重症の患者さんが新しく入ったらしく少し元気になった父はだんだんほかの患者さんと一緒になります。 |
4月11日 |
行ったらテレビがついていました。看護師さんがつけてくれたのでしょう。いくぶん熱が残っているようですが、よく話し掛けてくるしまあまあ元気。(入れ歯が入っていないので聞きづらいが入れ歯があれば普通の会話が成り立ちそう)昼食は1/4程度しか食べませんでした。少しおいてからゼリーの大きなカップをたいらげました。 |
4月12日
母の月命日 |
今日和尚さん来たよ、というと5分もしてから「和尚さん来たっての」と返事をくれました。こちらの話す言葉はちゃんとわかってるみたいです。午後の仕事があったので15分くらいしか居れませんでした。 |
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2005年3月30日(15日から一般病棟に。今日、酸素のマスクを外しました) |
3月30日 |
酸素マスクを外してゆっくりした様子。何となく顔がおどけて見えました。両手首にはミットのような手袋をつけていますが、点滴や鼻の管を外してしまうのでやむなくです。 |
3月31日 |
今日は手袋を外していました。むやみと管を外すようなことはしなくなりました。やはりその頃は苦しいからそうするようです。手持ち無沙汰なのか今日は枕頭台の引出しを開けたり閉めたりしていました。昨日は看護師さんがおはようと声をかけたらおはようと答えたというが信じられない。 |
4月1日 |
今日は鼻の管を外していました。これで顔についている治療器具は何もありません。部屋に入ると「おはよう」と呼びかけました。すると口をぱくぱくしてまだシュウシュウいう音ですが「おはよう」と答えてくれました。ほんとだ。 |
4月2日 |
今日父のところに行ったら、ベッドの足側が窓のほうに向けられていました。今日は天気がよく5階の窓からは鳥海山がよく見えました。退屈な父が少しでも興味を示して欲しいとの看護師さんの配慮でした。テレビなどもどうでしょうと看護師さんが言うので父と羽黒高校の試合をテレビで見てました。父は10分も見ていたかと思うと目を瞑っていました。 |
4月3日 |
日曜日は5時過ぎてから父の見舞です。8度の熱があった。そのせいかあーうーとしきりに声を出す。苦しいと言うよりだるいようです。それが歌っているようなので私もあわせて歌いました。先週もそうだったがこの熱は何なのだろう。明日には熱が引いていることを願いながら8時に病院を後にしました。 |
4月4日 |
まだ水枕(アイスノン)をしていましたが、多分8度もないでしょう。そんなに苦しさもないようで眠っていることが多い。今晩から練習かゆ(口からの摂食)を始めるそうです。 |
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2005年3月14日(人工呼吸器も外れ、昨日から隣のHCUの4人部屋に移りました) |
3月14日
ホワイトデー |
病室に入るなり大きな目をして見つめていました。一緒に行った叔母(亡母の妹)と語り合っているうちに安心したのかすやすやと眠ってしまいました。主治医先生のお話を聞くことができ、それによると尿は出ているがまだ尿毒症があるとのことです。 |
3月15日 |
HCUは一日だけで一般病棟個室に移りました。行ってみるとさっぱりした顔をしていました。手を握ると指で調子を取ってとんとんやるくらいだからかなり余裕が出てきたのかな。 |
3月16日 |
眠っていましたので、そっとデイルームに行って昼食をとってきました。むくみが取れたせいか腕のしわしわが目立ちます。叔母が見舞いにきてくれましたので早く家に帰って自分の時間を過ごしました。 |
3月17日 |
昨晩9時頃にも見舞いました。眠れないのか目をぱっちりと覚ましていました。バスタオル、タオルなどを置いてきました。
昼過ぎ早めに行きました。呼吸がよくなっていると看護師さんの話でした。手を握っていると握り返したりするので心の底で会話しているようで慰められます。 |
3月18日 |
昼過ぎ行ったら眠ってました。30分もして目を覚ましきょろきょろ見回し私がいるのが分かったようです。最近は酸素のマスクを自分から外すこともなく手を縛られてません。 |
3月19日 |
今日9時前、病院から電話があり、具合が悪いのですぐ来てください、とのこと。行ってみると呼吸が激しく血圧も低く夜中40℃まで熱が出たと言うことです。
今日の夜8時頃には平熱に近くなり、血圧も上がってきました。ただ呼吸は激しいです。明日は落ち着いていることを願いながら家に帰りました。 |
3月20日
春分の日 |
朝、仕事の電話が入り見舞いに行けませんでした。午後、行ってみると呼吸が穏やかになっており、熱もなくなっていました。父の復元力にすごいと思いました。
呼吸があまり穏やかすぎて、呼吸回数を計る器械が0を示しピーピー鳴って私も一瞬焦りました。眠っている間に呼吸が数秒止まることがありますが、そんなふうになるのです。眠りからさめると目を大きく開き見舞いの父のいとこと私に気がつき、おーおーと声を出しました。父の声を久しぶりに聞きました。 |
3月21日 |
おとといの事は嘘のように安定してきました。薬を使わなくても尿が出るようになってきました。体力がつくと手足を動かし、点滴を外したり酸素吸入を外したりするので別の心配がありますが。やり場がないのかうーんうーんと声を出すようになりました。だんだん意味のある言葉を言ってくれたらね。 |
3月22日 |
うーん、うーんと声を出すわけが分かりました。胃から戻しそうな気分のようです。気管に逆流しないように食道に管を通しているので、嘔吐物が管を通って排出されます。見方を変えれば気分が自覚できるほどになっていることはいい兆しかもしれません。実際見舞いに行くと大きく目を開けて何か訴えているような仕草をします。 |
3月23日 |
酸素吸入の量が少なくなってました。尿がよく出ています。手を動かすので管を自分で外さないよう手袋をさせられていました。今日は嘔吐感がないようで声もあげず穏やかでした。私が見ると目をそらし、私があっちを向いているとこちらを見つめています。 |
3月24日 |
ことばと言える声は出さないが、もううんざりと言うようなため息混じりの声を出します。いったい何を考えているのか(それとも考えていないのか)わからない。 |
3月25日 |
機能が回復して分かってきたことは、父はかなり脳のダメージを受けているようだと言うこと。体力が回復しても精神年齢は1歳くらいかもしれません。それならそうと赤ちゃんを世話するようにつき合っていきましょう。今日は父の耳元で庄内おばこを唄ってきました。 |
3月26日 |
いつもの時間に講習があり遅れていくと叔母がつき添いをしてくれていました。私が12時前後、叔母が3時前後となかなか一緒になることがありませんでした。
今日の父はおとなしく鼻の下を伸ばして看護師さんにひげを剃ってもらっていました。 |
3月27日 |
今日は5時閉店後ゆっくり付き添いができるので、それから出かけました。酸素吸入量も最低の1で、もうすぐマスクを外せそうと感じました。今日はベッドの中でしたくたと動くこともせず穏やかでした。琴の若が勝ち越したことを伝えました。 |
3月28日 |
今日も穏やかでしたが、見つめる目の奥に何が見えているのかこちらとして少し不安でした。誇り高い父だから介護を受け入れる気持ちになれないのだろうか。 |
3月29日 |
今日は遅れて叔母と一緒になりました。母の妹だから声もしぐさも母に似ているし叔母があやすようにすると少し笑ったように思われました。酸素吸入量が0.5になっていました。心電図の機械も止めていました。少しずつ回りの機械類のお世話から解放されています。 |
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2005年3月2日(再び入ったICUにて。一緒に行った叔母=亡母の妹、の撮影で) |
2月27日 |
昨夜、私が帰ってから40℃の熱が出てました。
細菌が血液に入ってしまったようだとの主治医先生の説明がありました。
再びICUに逆戻りで、人工呼吸器にすがることになりました。 |
2月28日 |
血圧が上がらず、ICU頼みです。
ばい菌をやっつける薬が効いて排尿がうまくいってくれればいいのですが。 |
3月1日 |
今日の午後、訪ねてみると小さい目をキョロキョロさせて私を見つけたみたいでした。うれしかったです。たくさん話してあげました。もちろん答えられませんが。
今日あたりから手足を動かすようになりました。
血圧、排尿は改善されていませんが。熱は下がったようです。 |
3月2日 |
まだ薬を使っているそうですが、血圧が戻って(上がって)きました。昨日よりも手足をよく動かします。
今日は叔母と一緒なので写真を撮ってもらいました。そして叔母とそこでいろいろ話しました。父がそれを聞いているといいな。 |
3月3日
ひな祭り |
今日、主治医先生のお話がありました。
相変わらず血圧は上がらす、尿が出ないのでこの先多臓器不全を起こすとのこと。年齢・体調などから考え透析などは行わず、ぎりぎりまで現在の治療を続けてほしいと先生にお願いしました。 |
3月4日 |
少しだけでも尿が出ているようなのでほっとしました。
今日は目を覚ましてくれませんでしたが、話しかけてきました。 |
3月5日 |
今日は大きなあくびをしていました。でも気がついているのか。めげずに話しかけてきました。十分ではなくとも尿が出ているようなので安心。 |
3月6日 |
利尿剤を使っているとのことでしたが今日も尿が出ていました。血圧もだいぶ上がってきたようです。私が父に話しかけているとそばで看護婦さんが「やさしー」と言ってました。 |
3月7日 |
私にはそんなに悪くなっているように見えないが、手足にむくみがあるのでまだまだ排尿が足りないようです。 |
3月8日 |
呼びかけると、大きくあくびをして眠りの底から薄く目を開けて見てくれました。手足のむくみが引いてきています。 |
3月9日 |
主治医先生が見えて、いろいろお伺いすることができました。人工呼吸器を使ってはいるが、呼吸はほとんど自分でしているとのこと、尿は出ているがまだ腎臓の機能が回復していないとのこと、血圧を上げる点滴の量を少な目にしたらみるみる→80→70と下がるのでまた点滴の量が戻されました。 |
3月10日 |
むくみが引いてきてるようです。もうICUの主みたいな顔していました。早く一般病棟に移ってもらいたいものです。 |
3月11日 |
今日はおっきく目を開きました。どうして病院なんかに入れたんだと言われているようで悲しかった。父は病院嫌いです。床ずれが少しと、胃からストレス性の出血があるみたいでした。 |
3月12日
母の月命日 |
今日、人工呼吸器を外していました。そのせいか睡眠薬も弱くなり私がいる間ずっと目を覚まして私を見ててくれました。目が覚めていると語りかけるのもかえって恥ずかしい。やっと普段の父子関係になったかな。 |
3月13日 |
人工呼吸器を外して2日目、表情にも生気が戻ってきた。話していることは全部分かるようです。自分から話そうとするのかウーウーと声を上げます。午後3時にICU内の共同部屋に移るそうです。 |
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2005年2月26日入院中(25日、人工呼吸器を外して個室に移りました) |
2月25日 |
午後2時、人工呼吸器を外し、自力で呼吸できるようになりました。一般病棟(個室でナースステーションの近く)に移りました。
1時間ほど見守ってから帰りました。
夕方病院から電話があり、ベッドで落ち着かないので来てほしいとのこと。元気になるとこれだ。 |
2月26日 |
今朝病院に行ってみると、ナースステーションの一角に移動していました。しきりに動くようなので目が離せない。
昼ころ個室に戻されましたが少し熱が出ました。注射で熱が下がって安心して食事のため帰って戻るとまた8.8℃に、なんか私がいなくなると熱が出るみたいです。 |
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2005年2月24日入院中(写真を撮ると言ったら看護婦さんが顔を拭いてくれました) |
2月19日 |
朝、お風呂に入って出てこないので見ると、ガスが止まってました。ぬるくてあがれない状態。救急車を呼んで入院。39℃の熱があった。 |
2月20日 |
平熱にもどって一安心でした。 |
2月21日 |
気管支炎になっているようで、呼吸困難に陥り、夜、人工呼吸に切り替えICUに入りました。 |
2月22日 |
肌の色もよくなり、とても安定しています。
のどに管が通してあるため麻酔を使って眠らされています。 |
2月24日 |
麻酔を弱くして、呼吸も半分自分でしているそうです。話しかけると反応があり、何か答えようとしますが、のどに管があるので話せません。 |
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2005年2月12〜14日東根温泉にて |
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一週間前は、こうして二人で旅行したんです。私は山形で仕事がありましたが、父には近くの東根温泉で待っててもらいました。
そのときから少し気管支炎になりつつあったかもしれません。
でも、今考えると一緒に連れて行ってよかったと思っています。もし、うちに残していてお風呂からあがれなくなっていたら、とりかえしがつかないから。 |